会話のキャッチボールが成り立たない人の多さたるや。

会話(特段、ここでは対話での意味合いが強い)は簡単ではない。まず互いが持ち寄る言葉の意味を一定以上齟齬が生じないレベルで理解し合っている必要がある。
例えば、初対面で「おはよう」と言った時に、相手が「今は11時58分だから"おはよう"はどちらかというと間違っています。"こんにちは"がより正しいですよ」なんて返してくるヤツだったら、その先のやりとりが不安になるし、おそらく色々と噛み合わず有意義な対話は望めないかもしれない。
自分の経験や価値観のみで相手の言葉の正当性を判断したり、揚げ足を取ったりする人もいるが、そういった方々とはできる限り距離を取って生活するに越したことはない。
一方、家族や仲の良い間柄での会話は、言葉足らずだったり、言葉のチョイスが間違っていても、長い時間をかけて形作られたそれを補完し合えるシステムが機能することが多い。
また、初対面であっても、例えば、同じ分野で同等のポジションで同世代で生きて来た人間であれば、ある程度までは具体的な説明を省いたり、専門用語を駆使したり、特定の比喩表現を用いても理解し合えるだろう。程度の違いはあれど、同じようなことが言える関係性は多々ある。
しかしそのような関係性がなく、互いのバックグラウンドも大してわからず、直接対面したことのない、ビジネス上での初対面や付き合いの短い間柄での対話を、自動補完システムありきで考えているとしたら、それはあまりにも危険だ。
これは、「気遣いのできなさ」、「視野の狭さ」、「想像力の欠如」、「傲慢さ」、「横暴さ」、「経験不足」、10歩引いて「余裕のなさ」等に由来していることが多いと考えられる。始末が悪いことに、そのような方々は「自分がけっこう出来るヤツ」と思っている節があるケースが少なくない。
もし彼らが芸術家であれば、差し支えはないのかもしれない。言葉のアウトプットや言語化が不得手な代わりに、クリエイティブ能力に非常に特化しているタイプだった場合等だ。
しかしそうではなく、対話やメッセージでのコミュニケーションが仕事の一部以上として必須である環境に身をおいているにも関わらず、会話のキャッチボールが下手くそである場合、周りに大きなマイナスの影響を与えていると考えた方がいい。

まず相手の貴重な時間を奪っている。当の本人は「自分の時間を節約したい」と思っていることが多いが、結果として、全員の時間を奪うことに繋がっている。典型的な、足元の利益に目を奪われ少し先のより大きな利益を逃す例だ。
次に成果を不安定にさせている。例えば依頼者と作業者の対話で相互理解や有意義が少なかった場合、作業者側はその穴をこれまでの経験や想像で穴埋めするが、結果として、依頼者側の期待値に達しないことが多い(逆に期待値を大幅に超えることもある)。そのため、何度も修正をかけたり、何度も「違うんだよな、もっとこうなんだよ」と力説したりして、更に時間を奪う結果にも繋がる。
厄介なことに、この例では、依頼者側が自分達に非があると思っているケースは少ない。「金を払っているのはこっち」がその大きな理由を締めていることが多い印象だが、「金を払っている」は等価の片一方に過ぎず、両者の関係性は常にイーブンだ。ということをそもそも理解できていないか、癖でその思考が抜け落ちてしまう。
もちろん、作業者側にも対話を意義のあるモノに昇華させられなかった罪はある。対話はどちらか一方の出来不出来のみで良し悪しが決まるものではない。
最後に繋がりを切ってしまう。対話ができない or 対話にならない、というレッテルが1度貼られてしまうと、早々には剥がされない。相手に強烈にその印象を植え付けてしまった場合、SNSや口コミで拡散され、より大きな負のイメージを背負ってしまうこともある。
キャッチボールの話に戻るが、キャッチボールは、適切な速度と強さで相手の取りやすい正面の位置を狙ってボールを投げる力量が求められる。そして受け取ったボールをリズミカルに投げ返す。この何重ものラインが綺麗に描けているかが大切だ。剛速球や変化球を投げたり、暴投をしたり、変なタイミングで投げ返したりして、相手をバタつかせるやりとりではない。
たくさんの人と仕事をしていると、会話や対話を軽視している人が少なくない印象で、非常にもったいないと思う。何でもかんでもコスパやタイパを重視し、映画もドラマも動画もファストで見て(観る、ことをしていない印象)、できる限りたくさんの情報をインプットしたい、いわばメモリ人間になりたい欲に駆られてしまう時代の影響もあるのかもしれない。
キャッチボールの重要性を改めて考えて、広さだけでなく、しっかり深さも味わおうとする欲を捨てないで欲しいし、自分もそうでいたい。