小説家や学者までとはいかなくても、たくさんの言葉を知っていて、豊かな表現を使いこなせる人になりたいと思っていた時期がある。

あの頃は、無理やり難しい本を読んだり、一々辞書で同義語を調べたりもしていた。
子供の頃より遥かに様々な言葉を知ったし、多少はマトモな文章が書けるようになった気もする。
楽しい、悲しい、寂しいという安直な言葉で語るだけでなく、涼やか、淑やか、物憂げといった、どこかに振り切れない気持ちを表す言葉を使うこともできるようになった。
昔に比べると、いつの間にか言葉を扱うことが得意になっていたようにも感じた。

しかし、少し心配になった。天下に名の轟く文豪ならいざ知らず、たかが自己満の範疇で言葉の扱いが得意な気になっている輩が、一体どれだけのことを表現できているのか。
初春の香り立つ木漏れ日を歩いた時の仄かな青々しさを、晩夏の夕暮れを見た時の淡い切なさを、数年ぶりの友人と再び馴れ合うまでの歯がゆい白々しさを、言葉に先導されて、わかった気になってしまっていないだろうか。
表現する言葉の数が増えただけで、心が感じたことを半分も吐き出せていないのではないだろうか。
去年の秋と今年の秋がまったく同じであるはずがないように、昨日の帰り道と今日の帰り道も同じではないのに、事細かに違いを言い表せるほどの術を持っていないのではないだろうか。
それなのにわかった気になって、得意な気になって、いつかと同じような、繰り返し続けているような、言葉の術中に自らハマっている気がした。陳腐な言葉で語りすぎてしまって、せっかくの風味の広がりを自ら狭めている気がした。
楽しい、悲しい、寂しいでいいのかもしれない。その奥に広がる言い表せない感情や感覚を存分に感じていれば、その方がいいのかもしれない。
語りすぎて、突き詰めた気になって、つまらなくなったとしたら、どうしてそんなもったいないことをしているのだろう。
だからある人は絵にしたり、音楽にしたり、映像にしたりもする。よくわからないまま、言葉より強い臨場感の可能性を秘めた何らかの形にしてみる。
言葉にしてしまうことで小さくつまらないものにしてしまうくらいなら、言い表せない無限に近いような情緒をそのまま感じていよう。
そんなことを思った、春のような秋の一日でした。