先日、たまたまパンサー向井さんがラジオでお話されていた一節を耳にし、長い間喉に刺さっていた魚の小骨が抜け落ちるくらい、腹落ちしました。

私はパンサーや向井さんのファンではないので、たまに目にした際にはその内容が面白ければ観続ける、面白くなさそうであればスルーするくらいの温度感です。
そんな私が、たまたま流れてきたラジオの向井さんの話す内容、話し方や熱量に耳が奪われました。
向井さんが話していた内容はだいたいこんな感じのことです。
この歳になるとすごい思うんだけど(向井さんは1985年生まれの39歳)、自分の性格とか、自分の持っている能力とか、そういう障害物とか枷とかってさ、もう皆わかってるじゃん。「これできないな」とか、「これ苦手だな」とか。そういう障害物も枷も、全然違うんだよね一人一人。もう競技自体が違うんだよね全員。地球に住んでいる人全員の競技が全部違うんだよ。で、もう他の人と比べるのは意味ないなって思ったの、違うから、全部が。だから、今自分ができる競技の中で、どこまで飛ぶか、今の自分がどこまで飛躍できるかの記録でしかなくて、他の人が何メートル飛んでました、他の人がそこまで飛躍してましたって言うのは意味ないなってことに気づいたんだよね、競技が別だから、本当に違うから。だから自分がやってる仕事の中で誰が一位とか最下位とかなくて、だって自分しかこの競技に参加してないんだから。
同じような意味のことは、今まで色んな人が色んな表現で話していて、それこそ自分自身でも、自分に言い聞かせるようにして辛い時期を乗り越えて来た人もたくさんいると思います。
でも、この向井さんの言語化は非常に身に染みやすいなと思いました。一人一人が違う競技に参加していて、自分しか参加していない競技に一位も最下位もないという表現。
向井さんとほぼ同年代の私ですが、いつの間にか、本当に気づかない内に、しれっと自分と他人の生き方や立ち位置をまた比べていました。今まで散々、それこそ学生時代から自分は自分、他人と比べても意味ない、と言い聞かせて来たのに。
同年代の年収では平均以上だとか、もう子供が何歳で大変だとか、将来のためにこういうこと始めた方がいいだとか、あれこれ、比べていないようでいて、実は比較して勝手に苦しんだり悩んだりしていたんだと思います。多くの人が、そんな風に生活しているんだと思います。
でも実際のところ、向井さんが言うように、同じ遺伝子、同じ細胞、同じ環境、同じ感受性、同じ経験を持った同じ人間なんて一人もいないんです、この世に。何十億、何百億もの、これまでこの世に生まれて来た人間が、全員、全部違う形で生まれ、全部違う環境で形作られていったんです。つまり、全員が違う競技に、自分一人だけの自分専用の人生という競技に参加しているだけなんですよね。
たまたま記憶力が良い人、たまたま計算が得意な人、たまたま運動神経が良い人、たまたま絶対音感がある人、たまたま絵で再現できる人、たまたま声が綺麗な人、たまたま背が高い人、たまたま筋肉質な人、たまたま遺伝子が少し変で考えたり動いたりすることが苦手な人。たまたま自分の得意なことを小さい頃から特訓できた人。たまたま自分の苦手なことで小さい頃から躓き続けた人。
先天的に、後天的に、様々な環境や要因が影響して、似ているところが増えたり減ったり、似ていないところが増えたり減ったりしながら、それでもその差は微々たるもので、まったく異なる人間の数だけ競技が、人生があるんですよね。
だから、「同じ歳のあの人と私はなんでこんなに差がついてしまったんだろう」とか「周りの皆は社会人として世間体も立派なのに私はいつまでこんな生活を続けるんだろう」とか、その比較は前提が違い過ぎるので、まったく意味がないんです。
才色兼備な美男美女カップルが感じている幸せと、夢破れ未だに引きずり孤独なまま日銭で生活しているフリーターが感じている幸せを比較することはできないし、年収10億で愛人が何人もいる大企業の社長が感じている幸せと、ダウン症の娘を持つ零細企業で働く父親が感じている幸せを比較することもできないんです。
だって、あの人はあなたの競技の複雑さを知らないんだから。もちろんあなたもあの人の競技のルールを知らない。誰も彼も、この苦労を、この葛藤を、この悲しみを、この寂しさを、この喜びを、この幸せを、知ることはできないから。
各々が、自分だけが参加している人生という競技の中で、自分だけにしかできないやり方で、精一杯頑張ったり休んだりしながら、少しでも記録を伸ばし、一日でも多く楽しみ、自分が自分に「よくやった」と言えれば、それだけが、それこそが、人生なんだと思います。
パンサー向井さんのおかげで、久しぶりにこんなことを思い馳せました。